優しくして優しくされたい

君を形容する言葉を探してる

私は現場が大好きです

 

288日ぶりに現場に行くことができた。
元日に先輩のバックについた自担を見守ったのを最後に、現場がパタリとなくなった。

当選したツアーのチケットは消え、例年ならあるはずだったコンサート開催の知らせも来なかった。

 

その代わりにいくつもの配信ライブがあった。
変わってしまった日常の中で、大好きな人の姿を変わらず見られることが何よりの楽しみだった。
おまけに、席は常に最前列、どれだけ踊っても騒いでもいい(ただし近所迷惑には気をつけて)、MC中に自担の笑顔をお供にアイスだって食べられる。住み慣れた家で自担を見ることも楽しかった。

 

でも、現場には配信とは違う喜びがいくつもあった。

現場は辿り着く前から楽しい。
美容院で整えてもらったヘアスタイルが鏡や窓に映る度に心が踊った。
散々迷って決めた洋服を着ると何かのスイッチが入ったように気持ちが上がった。白いワンピースは私の戦闘服だ。
徐々に都会に近づいていく車窓を見ながらドキドキする時間も懐かしくて嬉しかった。
その時1番のおしゃれをしてきたであろうファンを見るのも楽しかった。
本番が始まるまでの時間も現場を構成する要素の1つだと思う。

 

そして幕が開いて、自担である川島如恵留くんの姿を見た瞬間、ドーパミンが身体中をどっと巡った。

どんな時も姿勢が綺麗なところ、
指先まで濃やかな踊り方をするところ、
一方で力を抜く瞬間も美しいところ、
ステップが丁寧で、
台詞や歌詞のない瞬間も瞳が感情を表すところ、

きっとカメラでは抜かれないようなところ、画面越しでは伝わりきらない一瞬一瞬に如恵留くんの魂が宿る。その瞬間を見逃さぬよう、零さぬよう、忘れぬよう抱き締める。その時間がこの上なく幸せだった。

 

現場に行く少し前、私の好きな自担は私が作り上げた空想の存在だったんじゃないかと、好きの気持ちが揺らいでいたこともあった。それまでと比べて圧倒的に遠くなった距離で、相手の感触が掴めなくなった。でも、久々に生で如恵留くんを見て、感じて、全部とは言わないけれど、私が好きになった部分のいくつかは紛れもない本物であることを思い出した。

今年の5月に如恵留くんは、ブログで「どの川島如恵留も本物だし、どの川島如恵留も偽物です。」と書いていた。自担の全てを知った気でいるのは危険だけれど、自分が見つけて集めた好きの気持ちをもっと信頼していい。この目で見た姿、耳で聞いた言葉、そこから生まれた感情は本物だ。初めて如恵留くんを見て、好きになって、もっと見ていたい、応援したい、と思った気持ちも、そんな風に思わせてくれた如恵留くんの姿も変わらずステージの上に存在する。

 

そして、自分が見つけた「本物」に惜しみない拍手を贈れる喜び。
拍手は便利だ。配信ライブの時は感動をリアルタイムで伝えようと思っても、Twitterの画面とライブが映る画面の両方を見るのは難しくて、結局スマホを置いてしまう。配信が終わってから言葉にしようと思っても、ドキドキしてワクワクしてゾクゾクして楽しいのに泣きたくなったりする複雑な気持ちを表す適切な言葉が見つからず、こねくり回す内に抱いた感動が新鮮味がなくなってしまう。
でも、現場なら、大きな拍手がそれらを伝えてくれる。細部は伝わらないかもしれないけれど、絶対に伝わってほしい賞賛と感動の気持ちは真っ直ぐに伝わる。ステージ上から客席に数多の感情が届いたように、きっと、客席からも感動を届けることが出来る。

 


少しずつ舞台もコンサートも再開しているとはいえ、毎月、毎週のように劇場やドーム、アリーナに足を運んだ日々がすぐに戻ってくるわけではない。1席ずつ間を開けた劇場では開催されたとしても席を確保するのはこれまで以上に大変だ。もしかしたら、私の次の現場は288日より後かもしれない。

それでも、今度はこれからも続く先の見えない毎日をもっと信じられる。画面越しでも、例え会場に行けなくても、そのステージの上には私の大好きが変わらず存在して、輝いている。そのことを思い出したから。

 

信じた上で、私はやっぱり現場に焦がれていたい。
現場で沢山の感情を受け取った時の心の高まりや、現場に行くことを楽しみにしていた日々のキラキラした気持ち、心を揺さぶった相手に感動を届けることができた喜び、他にも書き表せない程の幸せは、何度だって体験したい。それらを日々のエネルギーに変えて進んでいきたい。

 

そして、大好きな現場の煌めきに少しでも見合う自分でいるために、明日からも日々を丁寧に生きていたい。